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地上1.75メートル【1】 « 雑記

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2012/02/13

地上1.75メートル【1】

120207

去年発行した幸村と仁王中心の「地上1.75メートルの景色」という本の奥付けに、「語りはブログで」と記載していたのですが、掲載できていなかったので、今さらですが更新しました。
あとがきというよりもいつもの妄想記事と同じ体なので、たぶん独立した記事としても読めるようになっていると思います。
同人誌として発行した話の他にボリューミーな文があるのは適切な配置ではないかもしれないなと思っていたのと、あとがきと称したただの語りになっていることもしばしばあったので、これからはオフライン媒体とは分離して、別途こちらに掲載したいと思います。興味のある方だけお目通しいただければ幸いです。オフラインで発行した本にまつわる文章は、今後「あとがき」カテゴリーから参照できるようにしておきます。

では、続きから本文です。

「幸村がなぜテニスを楽しめなかったのか」について考えたとき、彼が頭角を顕していく過程で、手にした強さと引き替えに、孤独の中に身を置かざるを得なかったのではないかと以前書きました。今回はもう一歩踏み込んで、「自分の強さとこの孤独が不可分である」ということを受容した後の幸村について考えてみました。
孤高に選ばれた後の幸村は、将に人ならぬものであるかのように、鬼神のごとくただ勝利を求道するようになっていった。楽しむことのできないテニスを続けるならば、彼にとって勝利くらいしか、わかりやすい報酬がなかったからでしょう。
楽しくないのに辞めなかったのは、「楽しかった頃の成功体験に対する未練」という線もありそうですが、それ以上に「テニスが好き」だったからなのかな。好きだけど楽しくないという背反した2つの感情に振り回された頃の幸村のことを思うと、胸が詰まります。

そう考えると、幸村が手にした「相手の五感を奪う」という能力は、孤高をパートナーにした、彼の秘めたる復讐だったのかもしれませんね。何も見えない、何も聞こえない、何も感じない奈落に相手を叩き落とすことで、自分と同じ孤独を味わわせてやりたいという、無意識下の欲求が技に反映さ れたのかもしれません。孤高から奈落へ。
ただ、幸村本人の意志とは関係なく、「幸村に畏怖を感じた相手が勝手にイップスに陥る」ので、幸村は常に拒絶される側だったとも言えます。となると、初めて幸村に対するイップスを克服したリョーマは、「初めて幸村を受け入れた相手」だとも言えます。リョーマの方が幸村の高みへ並んだのか、それとも幸村の方が人の領域へ引き戻されたのか。どちらにせよやっぱリョーマセンパイかっこいいッスわ。罪作りな男だわ。
頂点にいた幸村を引きずり下ろすのと同時に、彼方の高みに行ってしまった、そしてその事をもて余していないリョーマは、やっぱり主人公たる器なのですね。

幸村のテニスとはどういうものか。「神の子」とはつまり「神に準ずる視点を持った人」ということなのではないかと考えました。神の視点とは、「超俯瞰的な視点」のことです。それ故幸村のテニスは、どんな技も、何も通用しない圧倒的な実力と、ついには五感をも奪うその超常的な力を以て、相手を地べたに平伏させるという次元を超えた高みにあります。自分でも何言ってんのお前?って思うけど、ゴッドハンド幸村なら真紅のベヘリットを手に森羅万象を把捉する神通力を宿していたとしても私は何ら驚かない。ベルセルクの映画観に行きたい。

そして、その超俯瞰的な視点と引き替えに、幸村は「テニスを楽しむこと」代償にしたのではないかと考えました。超俯瞰的な視点を得るということは、時が経つのも忘れて日が暮れるまで何かに熱中したり、没頭したりすることとトレードオフだからです。例えば、パニック映画を延々空撮したロングショットで見せられても、臨場感もクソないですから、のめり込むことはできない。全然楽しくないわけです。そして舞台はDVDよりも生なわけです。何の話だっけ。
だから、プレー中の幸村の心は常に静謐なんですね。どんな手を打っても、どこにボールを返しても、淡々と的確に打ち返してくる。かといって機械のように変化がないというわけでもなく、緩急も柔も剛も使い分けられた、意志のあるテニスなのに、感情の揺らぎを全く見せない。完成されすぎているんです。だからそれに竦んだ相手が逆に動揺してしまう。その最終プロセスがイップスなのでしょう。
幸村のテニスに対するスタンスは、徹底的にドライであると言えるでしょう。幸村スーパードライ。

そして幸村は最後に負けましたが、だからといって間違えたわけではない。これは方法論の違いの問題であって、正解・不正解の問題ではないからです。
ただ、立海=幸村は「勝つこと=正しい」という、勝てば官軍方式を採用したので、皮肉にも敗北と間違いとがイコールになってしまった。裏を返せば、立海は負ければ即賊軍に成り下がることを運命づけられたチームであったと言えます。
三たび優勝旗を持ち帰ることのできなかった幸村が、部長としてチームメイトにどう接したかを考えたとき、「決して謝らなかった、決して涙を見せなかった」この二つを徹底したのではないかと思います。何故なら、幸村は王者立海の部長だからです。恐らくこれ以上の理由はない。そして敗軍の将は兵を語る事を許されません。今まで自分を信じ、その旗のもと、共にここまで歩んで来た仲間に向かって、「すまなかった、今までのことは間違いだった」などと、どうして言えようか。謝るということはこの場合幸村にとってなんの美徳にもならなかったと思うのです。ましてや、彼らの前で涙を見せるなど。多分その責を、幸村はずっと背負っていく覚悟でいる。この辺りは、私の個人的な印象ですが。

で、肝心の幸村と仁王の関係についてですが、幸村のことだけでここまでになってしまったので、二人のことについては次回に分けたいと思います。言った側からあとがきでも何でもない!

Tags: 幸村, 立海

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